兵庫県高等学校体育連盟テニス部

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平成26年度男子回顧録 灘高等学校 加藤道夫

今年度の戦績概要

<県高校総体団体戦> 県大会出場枠のベスト8を決定する予選では、第1~4シードの4校(相生学院、甲南、西宮甲英、関学)は2~4回戦をすべて3-0で制した。残る4枠をかけての4回戦はすべて2-1の接戦であったにもかかわらず、結局は第5~8シード(芦屋学園、報徳、三田、明石城西)が勝ち上がった。ちなみに9~16 シード校では、第13シードの雲雀丘が尼崎北に2-1で敗れた以外はすべてシード校が3回戦を勝利した。従って、県総体団体戦のシード基準がほぼ妥当なものであったと思われる。 県大会では、第4シード関学と第5シード芦屋学園の準々決勝が予想通りの大接戦になり(D 63、S1 67(5)、S2 64)で関学が制し、その他もシード順位がキープされた。第2シード甲南と第3シード西宮甲英の準決勝も予想通りの大接戦になり、新加入1年生を加えた戦力に優る西宮甲英が2-1で勝利した。また、第1シードの相生学院は2-0打切で関学に貫録勝ちした。決勝戦は(D 工藤・島田 61,60 白藤・市川、S1 藤井 36,16 綿貫、S2 平松 62,63 山田)の2-1でダブルスに優る相生学院が制し、104校の頂点に立った。しかし、8月の全国高校総体では、相生学院は2回戦で伏兵の札幌日大に不覚の敗戦を喫し、全国大会団体戦での兵庫県勢の活躍は3月の全国選抜大会に持ち越された。 <県高校総体個人戦> 県大会の出場枠は長い間単68、複34であったが、現在は単96、複48に変更されている。このことで、高校からテニスを始めた選手諸君が予選を突破する可能性が広がり、モチベーションが高まったはずで、全国でも有数の高いレベルにある兵庫県の県大会出場という素晴らしい目標を目指しての努力にエールを送りたい。私自身も21年間は公立高校で「初心者を県大会に送り込むこと」を最大の目標に据えていた。 シングルスは、県大会ドローを4分割すると、第4シードブロックのみで本戦シード選手4名が初戦敗退したが、他の3分割ブロックにおいてはシード選手全員が初戦を制した。さて、ベスト8は団体戦の両雄の相生学院5名と西宮甲英2名、および関学1名になった。その中から、決勝戦は第3シードの綿貫 陽介と第8シードの山田 健人の西宮甲英の同校対決となり、綿貫が 26, 76(4), 64 で大接戦を勝利した。 ダブルスの県大会ベスト8の内訳は、相生学院6組、甲南と西宮甲英が1組ずつで、ベスト4は相生学院2組、甲南と西宮甲英が1組ずつになった。その中から、決勝戦は第1シードの藤井・平川(相生学院)が第2シードの吉田・近藤(甲南)に 63,61 で勝利した。 以上の結果と順位戦の結果から、全国総体には、シングルス 藤井 遼太郎、大野 翼(相生学院)、綿貫 陽介、山田 健人(西宮甲英)、高田 直幸(関学)の5名が、ダブルス 藤井 遼太郎・平川 響己(相生学院)、吉田 有宇哉・近藤 龍之介(甲南)の2組が出場することになった。しかし、全国高校総体の結果は、単複共に2回戦を突破できなかった。来年度の高校総体では、兵庫県勢の全国上位に食い込む活躍を期待するばかりである。 <県高校新人大会個人戦> 3年生が引退し、1、2年生による新鮮な県大会が赤穂海浜公園で行われた。この大会は、近畿高等学校選手権大会の予選を兼ねており、県高校新人大会団体戦の第1資料になり、全国高校選抜大会に繋がり、阪神地区・神戸丹有地区・西地区の団体戦の資料にもなり、多くの意味合いで重要である。 シングルスでは、本戦シードの初戦(2回戦)敗退は1名、3回戦と4回戦のシード選手の敗退は3名ずつであった。ベスト8の内訳は、相生学院・西宮甲英が各2名、芦屋学園・啓明・明石城西・兵庫が各1名となり、半年後の勢力分布がどの様に変わるかが興味深い。準決勝は、田代 悠雅(相生学院)97 白藤 成(西宮甲英)、大島 立暉(相生学院)82 山田 健人(西宮甲英)、相生学院対決になった決勝戦は 田代 84 大島 であった。 ダブルスでは、本戦シードの初戦(2回戦)敗退はなく、シード破りは3回戦の2組のみで、他は順当であった。ベスト8の内訳は、相生学院が4組、西宮甲英・関学・甲南・啓明が各1名だった。準決勝は 山田・白藤(西宮甲英)84 島田・大野(相生学院)、田代・太田(相生学院)85 板倉・田村(相生学院)となり、第1、2シード対決となった決勝は大接戦の末、 山田・白藤 86 田代・太田 であった。 以上の結果と順位戦の結果から、シングルス18名とダブルス9組が近畿高等学校テニス大会に出場し、結果はシングルスのベスト8に相生学院3名が入り、決勝の第1,2シードの相生学院対決は 大島 82 田代 という大活躍であった。それに反し、ダブルスでは 島田・大野 と 田代・太田 の2組がベスト8に入るにとどまった。 しかし、毎年のように短期間で別人のようなダブルスに変身させる荒井監督に、今年も期待したい。 <県新人大会団体戦(全国選抜大会近畿予選大会への県予選)> 参加校は98校であり、県総体の104校より6校減ったが、1~2年生で5ポイントの人数を確保できない高校があり、止むを得ない。県大会出場枠のベスト8を決める予選では、第1~4シードの4校(相生学院、甲南、芦屋学園、関学)は2~4回戦を圧勝したが、第5~8シードの4校のうち第6シードの報徳だけが灘に2-3で惜敗した。県大会の準々決勝では、第4シードの関学が第5シードの明石城西に大苦戦ながら3-2で辛勝し、第1~3シード校はいずれも5-0で圧勝した。ベスト4の4校によるリーグ戦の結果は、相生学院が3試合共5-0で圧勝し、初の男女アベック優勝を達成した。以下は、甲南が2勝1敗で準優勝、関学が1勝2敗で第3位、芦屋学園が0勝3敗で第4位となった。 以上の結果、相生学院と甲南の2校が全国選抜近畿予選大会(12月26日 長浜ドーム)に出場し、相生学院が圧勝で優勝して3月末の全国選抜の出場権を獲得し、甲南も順位戦で第6位になり、出場できる可能性が高い。 全国高校総体の雪辱に燃える相生学院と、出場濃厚の甲南の両校の全国選抜大会での上位進出が期待される。

兵庫県高体連テニス部を振り返って

<はじめに> 私こと、今年の3月末に灘高等学校・中学校を定年退職し、高体連テニス部とお別れすることになりました。県立芦屋高等学校・県立西宮北高等学校・県立神戸高等学校・私立灘高等学校での41年間の教員生活の2年目から40年間に渡り高体連の役員を務めさせて頂き、至らない私をサポートして下さいました皆様に心より御礼申し上げます。単に永く務めただけですのに、40年間の回顧録も書くように委員長の門田先生に仰せつかり、固辞しましたが、許されませんでしたので、失礼ながら、少しばかり回顧させて頂きます。

<会計> 私は24年間、会計責任者を務めさせて頂きましたが、当初の年間予算合計は200万円程度でした。それが、17年前に野村先生に引き継がせて頂いたときには約1000万円になり、我ながら恐ろしさを感じたものです。折しも、各種運動競技組織の経費諸問題が全国各地で論議され始めていたので尚更でした。そして、まもなく会計役員が3名に増え、現在は6名になっています。会計となった当初は、大会終了毎に会計決算を行うため、放課後に夙川学院に赴き、矢野委員長と夜遅くまで、領収書と格闘しながら作業したことを懐かしく思い出します。ちなみに、当初の県大会は男女共に 神戸ローンテニス倶楽部(現在の阪急王子公園駅 西へ徒歩5分)で行われ、私が神戸高校選手の頃から、神戸LTCの赤土コートは「県高校テニス選手達の聖地」でした。

<二度の全国総体> その間に、昭和63年の全国高校総体テニス競技大会を矢野委員長の下で開催しました。試合会場の神戸総合運動公園近くに、当時独身で結婚間近だった私のマンションの一室があり、役員達に「そこを大会本部にしよう」などと冷やかされたものです。その大会運営で、私は会計と共に審判委員長に命じられ、2年前から、当時活躍していた高校の先生方に御推薦頂いた1年生の男女審判員を集めて養成し、県大会や近畿大会を審判リハーサル大会として実施し、本番では、個人・団体の1回戦から決勝までの全試合を生徒審判のみで行いました。これは全国総体の歴史上で初めてのことだと聞かされ、他府県の役員の皆様に感心され、お褒め頂きました。そのときの審判副委員長は前高体連委員長の石森先生、その下で走り回って下さったのが新進気鋭の寺谷先生でした。それらの審判員には試合の合間のコート整備班も編成して活躍して貰いました。二度とそのような経験は無いものと思っておりましたが、なんと、平成18年に大阪府が財政難を理由に、予定されていた全国総体テニス大会の運営を不可能として放棄し、兵庫県に回ってきたのです。「冗談やろ! 放棄なんてできるん!」と叫びあったことを覚えています。かくして、全国高校総体テニス競技大会を再び、今度は宮内委員長の下で開催することになってしまいました。そのときの審判委員長はもちろん寺谷先生で、見事なお仕事に感服致しました。これら2回の全国大会の前後は、兵庫県の敗者審判のレベルは全国の見本だと言われたものですが、最近の大会の予選や県大会における敗者審判のレベルは著しくダウンし、見るに堪えません。見かねて、審判に「声を出してポイントコールをしなさい!」と注意すると、観戦している保護者に「邪魔するな!」と怒鳴られる始末です。審判を公正に行うことは重要な教育だと思いますので、是非とも皆様と共にしっかり指導しましょう! 余談ですが、私は県中体連役員も21年間務めさせて頂き、高体連と掛け持ちですので、どちらの役員業務にも徹底できず、不義理になってしまったことを深くお詫び申し上げます。さらに、3年前には全国中学校テニス選手権大会が神戸市で開催され、3度の全国大会の運営に携わったという数少ない者になってしまいました。

<ジュニア委員会> 私は兵庫県テニス協会のジュニア委員も25年間務めさせて頂きました。幸い、当初から兵庫県では、高体連・中体連とテニス協会の仲が良く、運営委員の先生も重複している方々が多く、他府県から羨ましがられるほど協力し合って運営されています。私は3足の草鞋を履き続けたので、大したことはできませんでしたが、ジュニア委員会への出席率が常に委員長(議長)の次だったことだけが小さな誇りです。そういうわけで、当初は酷使され、県ジュニアテニス選手権の県大会で、開会式・表彰式の司会・ルール説明・12U~18U 男女・単複のすべてのオーダーオブプレーをたった一人で4日間やり通したこともありましたが、やがて、若き安田先生が来られましたので、すべてお任せ致しました。また、サマーサーキット大会(男女16U・18U)においては、宮内先生・竹浪先生と共に、合計400名以上の男女を当日抽選し、午前の試合中にドローを作成・印刷して配布し、2日間で第1戦を終わらせ、その上位者をシードとし、引き続く2日間で同様に当日抽選による第2戦を行い、第1・2戦のポイント合計上位の16名によるマスターズ大会(無料)も行うという世界で最も過酷な運営? も行いました。その結果、関西ジュニア出場者を除く選手レベルを強化し、それらの決勝進出者が翌年の県ジュニア選手権や県高校総体でベスト8になることも多く、やりがいも大きな大会でした。しかし、私がジュニア委員を辞任したとき、選手に喜ばれたこの大会は無くなってしまい、寂しく感じました。

<ジュニアポイント> ジュニア委員期間中、我々ジュニア委員にとって最も重要であった仕事は何といっても、ジュニア大会・高体連大会の戦績をポイント化するという難題を解決することでした。これは10年間近く論議を重ねて遂に成し得たものです。難航した最大の理由は、テニス王国兵庫ならではの理由なのですが、当時の園田・夙川が全国団体制覇を続け、兵庫県の決勝は全国の決勝であり、両校の選手数十名が県大会に出場し、その選手たちのシードは両校の監督が決めざるを得ないことでした。ポイント化を巡り、真剣な大喧嘩並みの激論で会議が中止されたことも数回ありました。そのようないきさつで、10年近く前まで、女子の県大会団体戦のドローでは、園田と夙川がスーパーシード(準決勝から試合する)になっていたのをご存知の方も多いと思います。宮内先生を中心とする当時のジュニア委員が主たる大会のグレード別ポイント表を作成し、数年間に渡り、毎年の仮想年間ポイントランキング表を作成し続け、その表を、ポイントなしにドロー会議で作成されたドローと比較し、双方のドローがほぼ一致することを示すことで、ようやく成し遂げられたもので、それらの作業における宮内先生の超人的なお仕事には頭が下がります。それが基になり、西地区の先生方のノウハウも取り入れることによって、今日のジュニアポイントによるシード作成(高体連の大会・テニス協会の大会に共通)に至ったという事柄を思い返すと涙が出てきます。そして、今後も高体連と協会のよい協力関係が維持されることを祈ります。

<大震災> 大きな出来事の筆頭は何といっても阪神淡路大震災でしょう。本年はちょうど震災後20年の区切りの年ですが、高体連テニス部役員の皆様の若返りによって、震災直後の大会運営をどのように行ったかも忘れられかけていますので、迫り来る東海・東南海・南海大地震に向けて、私の記憶を少しばかり書かせて頂きます。震災直後の阪神・淡路は、あたかも大空襲を受けたかのように鉄筋ビルも含めてほとんどあらゆる建物が崩壊し、その上大火災で一面焼け果てた地域も多く、現在の建築物の復興は本当に信じがたいものがあります。 1月17日の震災後、多くの学校の授業も行われない中、3月の県ジュニア選手権は、予選は行わず、過去1年間のポイント上位者による選抜大会とし、丹波総合運動公園で実施しました。また約4ヶ月後の県高校総体は神戸総合運動公園・しあわせの村において予選を含めて実施しました。

<おわりに> 40年間を長々と振り返ってしまい、お読み頂いた方々が貴重な時間を浪費されたかも知れず、誠に恐縮でございます。それでは、兵庫県高体連テニス部の益々のご発展を祈念し、ご挨拶とさせて頂きます。

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